晴れてるし暖かいしまったり描いてます:2011.04.16.
USTアーカイブ(17:39)
<大体の意味合い文字起こし>
●構図は権力か?
構図から描き進めた名刺サイズ14作目。
構図・フレーミング・枠というのは権力である。と僕は仮定しています。
ですので、絵の描き進め方としては、線が自然発生して増殖して行き、最終的になんらかの構造が見えてくるようなやり方を目指してきました。
構図を先に決めて描くというのは、権力を肯定しまうことであると考えてます。構図を先に決めて描くと絵が固くなることが多いです。
ところが構図を先に決めてから描くこともあります。
構図から描き始めてうまく描けない場合、1.自分は権力を肯定した上に、2.その権力構成に失敗する、という二重の失敗を重ねることになります。
生物が増殖するように、線が自己増殖していく描き方を強くイメージしてきました。構図から入るのは権力から世界を作ることだと考えていて、それは良くないことだと思ってきました。
構図を権力や暴力だと決めつけないで、自分の仮説を組み直すことも必要かも知れないと思いました。
●コマを配置している
実際の描き方は、有機的に増殖すること目指しながらも、漫画で言えばコマのようなものを作って配置して行ってます。
コマとは、1.小さな自律空間、2.小さな権力、3.目を動かしていく順番であると考えてます。
増殖して菌のように宇宙のように自然に調和していくことを目指していましたが、漫画のコマのような人為的な構成を無意識的に行ってるような気がします。
不思議感に辿り着くための技法や方法論があるのかというとそうではないような気がして、子どもの頃の「漠然と丸ごと世界を不思議に感じていたあの感覚(そこには切なさと哀しさと寂しさが混じっています)」を思い出して保ちながら描くことなのかなあと思いました。
「ルサンチマンとどう向き合うか」を喋ろうと思ったのですがそれはまたいつか。
只今制作中:2011.04.14.
USTアーカイブ(11:23)
<文字起こし>
昨日、葉書サイズ、名刺サイズ出来上がって良い調子だったのですが、今日は眠たかったのもあるせいか、苦戦を強いられました。
調子に乗るとしっぺ返しを食らいます。
食材がなく、それも気になってました。
毎日描いていて休みたくなる時もあります。イメージがフレッシュじゃなくなるんですよね。
大衆演劇は月に1回とかの休みで毎日違う芝居をやるけど、プロだなあと思います。
たまに描くなら新鮮なのですが、毎日描いて新鮮さを保っていたいです。
たっぷり寝て、ゆっくりやる。
はしゃがない、謙虚に。
自分の成長は地味に噛み締めます。
●形式について
描かれてる作品の様式化についてどう思うか。
形式化されていくのは良くないのではないだろうか?という考えと、
身体に叩き込んで形式化していくのが作品だ。
という対立軸についても今後考えていきたです。
只今制作中:2011.04.13.
USTアーカイブ(21:38)
<文字起こし要約>
●泥酔で余震に気が付かず
今日、葉書サイズと名刺サイズが大分出来上がってきたので、次の描き始めをアーカイブしていこう。描き始めを録画しておくのはいいかも知れないですね。
(描いてる)
メールで知ったんですけど今日も大きな余震があったみたいです。僕はちょうど寝てたので全然気が付きませんでした。
最近は地震恐怖症で揺れると起きちゃってたし眠れなかった。
昨日はかなり呑んで泥酔で寝てたので起きませんでした。酒の力を借りて起きないようにシャットダウンしてた、睡眠薬代わり。
二日酔いっぽいのはあったけど寝たのでスッキリしました。
酔っぱらうとよくないのは、なんか変なのが出てきちゃうんですよね。抑圧していたネガティブな本性がうわーっと出てきちゃうんですよ。厭なこと、卑屈な気持ち、ルサンチマン的なこととか。
目覚めた時にそういうネガティブな感情が沸き上がってきた感触を覚えていて、朝、少しブルーになったりはするんです。
毎朝、「自分のやれることって何だろう?」「自分のやりたいことって何だろう?」って自問自答がずっと続いてる。こうやって引き蘢って葉書サイズと名刺サイズの絵を描くことが、「やりたいこと」、「やれること」、なんだなあと確認して今日も描いてます。
●「見せるために描いてるのではなく、描いてることを見せている」
「なんでUST配信で見せてるのか?」
去年2010年に個展をしたんですけど、箱や枠組みやスケジュールや課題が決まってから、その期待に応えるために制作するのではなくて、普段、何もないのに絵を描いてしまう営みが、たまたま展示というステージに恵まれたという形だったんです。
そのような感じ。
見せるために描いてはいるんだけど、(見せるために描くんじゃなくて)描いてることが見られる、という感じ。
デザインの仕事は納期とギャラから入るんですよね、枠組み。そしてどういう内容か。
クライアントの希望にどれだけ応えられるか。
期待に応える能力が高いのがエリートなんだと思うんです。
僕の芸術に対する考え方は、期待に応えるエリート志向ではなくて、「どうしょうもなく描いてないとならない」とか、どうにもならないことが、例えば絵という形として表現に辿り着いた時に、「芸術」が成立するんじゃないかなあと。
アートアカデミズムは学校で展示スケジュールが決められていて、例えば「卒業展覧会」とか、「卒制やらなきゃ、どうしよう〜」とかよく聴きますが、それは僕からすればデザインの仕事だし、期待に応えるエリートの在り方で、それって芸術なのかなあと思ってしまうんです。
「展示とは何か」を考える前に展示スケジュールが与えられしまう体験がないので僕にはよく分からないんです。(同じように)僕の感じてることが伝わらないのかなあと思ってしまうのです。
そしてアートアカデミズムの人たちは僕のようなやり方を下に低く見てるような感じも受けるのです。何気ない仕草や立ち振る舞いからそれを感じることはよくあります。
ひがみですかね(苦笑)。
●自問自答の日々
3.11以降、自問自答は強くなりました。それは死を見たからだと思います。たまたま暮らしてる所が数百キロ違っただけですから。
「今日これやってて死んでいいのか?」と毎日突き付けられます。
描き始める時に、もし今日死んじゃうとして、「家に引き蘢って小さい絵を描くような地味な作業してていいのか?」「それでいいよ」と自問自答します。
描いていたい。とそう思うわけです。
●今日の制作感想
ちょっとずつ「自分の絵、面白いじゃん、ウキウキ」という感じが出てきたかなあ。毎回そこに辿り着くように描いてはいるのですが。
描いていて楽しいし、描き終わったのを見ても楽しい。そういう感じがしっかりしてきたような感触はあります。
誰が見ても、とは思わないけれど、「なんかウキウキするなあ」とか「ふわーっとするなあ」とか思ってもらえる絵が描けてきてると思うのです。
「ふわーっとする」のが好きなんです。
不思議な感じ。向こう側の、幻想的な不思議な感じにさらわれてく感じ。例えばエリック・サティを聴いた時の不思議で身悶える感じというか。
心地よい感じと、じれったい感じと、切ない感じと、不思議な所に入っていく感じ。向こう側の世界に行く感じ。
時空を超えたいんです。
重力と時間から解放されてしまう感じ。生きてる限りそこから解放されることはないのですが、解放された時の感覚を知らないのですが、重力と時間と空間とから解放された感覚を抱くのが「ふわーっとする」というイメージです。
ちょっともどかしい感じ。
そういうのを感じさせたいです。
見る人の何人かはそれを感じて頂けるんじゃないかなあと思います。
小さいサイズだけど、そこから大宇宙に繋がってる感じを見る人が持てたらなあと。
それが着実に出来てきてるかなあと。それが嬉しいです。
只今制作中:2011.04.12.
USTアーカイブ(14:03)
<大体の文字起こし>
久しぶりに午前中から描き始めています。それは朝8時くらいに余震があって起きてしまったからです。明け方まで眠れなかったので寝不足です。
こんなに地震が嫌いだったのかなあ。と思ってます。
大きい余震が来る前って興奮してるのだろうか?電磁波が増えますよね?そういうのが人体とか感情に影響を及ぼすと思うのです、自分の状態で地震を予知出来ないのだろうか。と思ったりもします。
風が強い日は家の中に居ても気持ちがざわざわします。
●制作と犬の散歩
描かれたものが地震の影響を受けてるかも知れませんが、地震を描いてる、ということはないです。
自分はこんなことをやっていていいのだろうか?自問自答の日々です。
絵を描くことが習慣にはなってるとは思います。
犬の散歩と近い部分があるかも知れません。
昨日は祈ることと描くことを重ねました。
習慣と言うのは気持ちよさや楽しさと関係してると思います。義務感だけでは犬の散歩は続かないように。
身体的な習慣、日常のリズム。本人が思ってる以上に根をおろしているもの。犬の散歩と描くこと。少し似ていると思います。
犬の散歩と制作の共通点については、昔デジクリに書きました。
『犬の散歩のような制作スタンス』
只今制作中:2011.04.11.
USTアーカイブ(19:01)
<おおよそ文字起こし>
今日、大きい余震が来ました。不安というか怯えるというかグッタリするというか。名刺サイズ(13作目)を描き始めました。
●描くことは祈りを捧げること
「何のために絵を描いてるのか?」
何のためもないかもしれませんが、それでも描くしかないです。
ひとつ、「祈る」ということの自分なりの解釈が「描く行為」とだと思ってます。
「祈る」って無力だといわれます。無力だけど、祈りを捧げる行為は、どの宗教でも、教典のない原始信仰も、大切で根源的な行為だとされていますよね。
「祈りを捧げる」にはいろいろな形式があります。手のひらを合わせる、手のひらを組む、唱えるなど。
僕の祈りの形式は「描く」こと、かも知れないです。名前のない信仰の。
毎日祈りを捧げて暮らすことは、修行僧みたいだけど、「描く」ってそういうことかも知れません。
誰かの教えではなく、既存の宗教ではなく、自分で勝手に祈りを捧げる、自分の信仰としての描く行為なのではないでしょうか。
それが故、心もとない部分もあるのです。もっと自分を信じられるといいのですが、なかなか自信満々にはなれないのです。それでも祈りを捧げるように描いてます。
「祈りを捧げるように描いてる」と思うと、少し楽になる、救われた気持ちにはなるのです。
●引き蘢っていたい
引き蘢っていたい気持ちが強いのです。怖いのでしょうか。
怖いと思った時に、「キューっと動かなくなる人」と「ピョンピョン動き回る人」がいると思うのです。年齢とかも関係するかも知れないですが。
今は出歩くのが億劫です。
今日の大きな余震で家の外に出たのですが、電信柱が倒れて来ないような所まで数メートルくらいでしょうか、そのくらいの外の風景だけで別世界に感じるのです。
家からほんの数メートル外に出ただけでもいつもと違う風景を感じられるので、引き蘢っていたい。
●閉じ込められた画家
去年2010年個展をしたのですが、前の人が獄中で絵を描いてた人でした。
檻の中で自由を夢見ながら描いたのでしょう。
小さな絵で鉛筆かボールペンで描いてあるのですが、その絵が良かったのです。
狭い檻の中から宇宙に広がるような「ふわーっ」とする感じ。
苦しい、辛いというのも感じるのですが、だからこそなのか、星の方に羽ばたいていくような浮遊感というか、そういうのを感じたのです。
ため息が出るような浮遊感、宇宙に繋がって飛んでいく感じ、の絵を描くには、えん罪で牢屋に入れられてしまうような、不条理な不自由があったからかも知れない、と思うのです。
その人は確か釈放されてから絵を描いてないようです。
一番欲しかった自由が手に入って、描く必然性が消えたのかなあ。
僕が祈る行為として描いてるのは、獄中ではないけど、どこか不条理な不自由を抱えていて、自由を夢見てるのかも知れません。
時間と重力と空間から自由になりたい。
未出現の宇宙を夢見てる。
だからこそ、獄中絵画を見た時に自分に通じるものを感じたと思うのです。
その人は檻から出られて自由になったけど。
僕の場合の「自由」とは一体なんだろう?
「死」なのだろうか?
死ねば、時間と重力から解放されます。
只今制作中:2011.04.10.
USTアーカイブ(31:33)<ざっくり文字起こし>
実験的にアーカイブしています。これから毎日アーカイブしようかとおもってます。
制作の最後の30分くらいアーカイブしていこうかなあと、「本日の感想」のようなものを。
●なんでUSTで制作風景を配信したいと思ったのか?
3.11の地震の後、「自分に出来る事ってなんだろう?」「自分は何がしたいのか?」とあらためて問い直しました。
その時に思ったのは、「自分の現場に居る」とこでした。
誰しも自分の居る(行く)べき現場に居る(行く)。
子育て中の人は子育てが現場だし、会社に行く人は会社が現場だし、仕事や学校を投げ打って東北に(ボランティアへ)行く人はそれが現場だし、原発の復旧作業をしてる人はそこが現場だし、みんな、自分にとっての現場があると思ったのです。
「自分の現場の仕事をする」「自分の現場ってなんだろう?」と考えたら
今は引き蘢ってドローイング制作する事だなあと思いました。
基本的に毎日描いていたのですが、あらためて毎日描こうと思いました。
「なんで配信するのか?」
制作過程を見せていくのは昔からやってきたので、一番自分の出来る事かなあと思ったのです。
地震後一週間くらいはバタバタしてましたが、それから(記録しない)UST配信を始めて、地震後一ヶ月経った今日からアーカイブを始めようと思いました。
最初は『ただ制作してるだけ配信』というタイトルで始めました。今は『只今制作中』としています。
最初は「輪番停電」と言ってました。都心部は停電しないから「輪番」ではないので、「計画停電」と、呼び方を変えたのでしょう。
計画停電をきっかけにしてUSTを始めました。
制作風景をダダ漏れ配信しているのですが、計画停電が来て強制的にシャットダウン(配信終了)するという在り方(枠の作り方)が出来るなあと思いました。
「制作過程を表現するUST配信」(出来事)
「東電の都合による計画停電」(枠)
自分の表現(出来事)は東電という強者(枠・フレーム)には勝てない。
「枠組み(フレーム)」と言うのは実は「権力構造」だと仮定します。
制作配信が計画停電で不意に終了してしまうことによって、「枠組み」というのは自分の好きには作れない、強い者の都合で決められてしまうものなんだ、というのを表現したかったのです。
(同時に、「フレーミング」することはどんな場合に置いてもそれは「権力(暴力)」である意味合いを持つのではないだろうか)
●「地震が起きても戦争が起きても、絵を描く事を最優先しなさい」
毎日毎日思う事は、このままこれを描いて死んでいく人生を「良し」と覚悟してるのかどうか。
このまま描き続けてもお金にならない。誰も見てくれるわけでもない。
無駄であっても、自分にとって有意義か、やりたい事なのか、毎日自問自答します。
なんとなく毎日描く事を続けられてるのはきっと楽しいからでしょう、または気が紛れるのかもしれません。
2010年の夏、個展が終わってから僕は長崎の友人を訪ね、暫く滞在してました。
その時に、長崎美術館の館長さんと面会する機会に恵まれました。
そこで印象的だったのが
「地震が起きても戦争が起きても、絵を描く事を最優先しなさい」
と言う言葉でした。
この言葉が自分にフィットしたのです。
本当に地震が起きて、これが実践出来るのか真価が問われます。
幸運なことに意外と無理なく描く事を最優先出来てるかなあと。
●さらば東京中心主義
2011.04.10高円寺反原発デモについて。
素人の乱主催のこのデモの告知を見た時に凄い事になるなあと予感しました。象徴的なデモになるだろうと。でも僕は行かなかったんです。
なぜデモに行かなかったのか?
1つは上記のように「描く事を最優先する」実践をしていたかった。
もう1つは、計画停電という地域差別。
「都心を停電させたら大変なので計画停電から外す」という一見もっともらしい言葉。
それは地域によって重要度に差異があることを示してしまってます。
上尾なら停電して良いと。
上尾だって停電したら大変です。病院だってあるし工場だってある。
これは上尾の人は死んで良くて、都心の人は死んでは良くない、という差別であると僕は考えます。
東京中心主義、文化もそうだなあと思ったのです。
僕のアーティスト活動もそうでした。東京でやって初めて意味(価値)を持つのです。東京に行かないと文化が認められないのを容認していました。
なぜ上尾に暮らしてて都内に出てアーティスト活動しなければいけないのだろう?
上尾に住んでいて、なんでわざわざ東京に出て文化発信しなきゃならないのだろうか?
自分は東京のステータスが嬉しかったんです。東京で活動してる自分が嬉しかったんです。上尾に暮らしてる自分自身が東京を上に見る地域差別を倣ってしまっていたのです。
しかし、ふと厭になったのです。
東京中心主義が厭になりました。この地震で。
高円寺デモは否定してないです。(複雑な心境はありますが)
僕の身体は東京に行かずに上尾に居る事を選びました。
●このまま描き続けて死ぬのか?
この国は変わるのだろうか?
僕のようなフツー未満な人間にとって未来はあるのだろうか?
いつまでこの葉書サイズと名刺サイズを描いていればいいのだろうか?
このまま描き続けてもお金が入る目処が立たなかったらどうするのだろう?
本当にダメになったら潔く自害(切腹)するしかないのだろうか?
このまま描き続けて死ぬのか?
●地震から一ヶ月
原発推進派が圧勝する選挙があって、
大規模な反原発デモがあって、
なんかの節目だと感じます。
絵を描く事によって、自分が、または誰かが、救われることがあったなら、嬉しいなあと思います。
線そのものが見えてくる感じをもっと出したい。
もっと不思議な感じを出したい。