只今制作中:2011.04.11.
USTアーカイブ(19:01)
<おおよそ文字起こし>
今日、大きい余震が来ました。不安というか怯えるというかグッタリするというか。名刺サイズ(13作目)を描き始めました。
●描くことは祈りを捧げること
「何のために絵を描いてるのか?」
何のためもないかもしれませんが、それでも描くしかないです。
ひとつ、「祈る」ということの自分なりの解釈が「描く行為」とだと思ってます。
「祈る」って無力だといわれます。無力だけど、祈りを捧げる行為は、どの宗教でも、教典のない原始信仰も、大切で根源的な行為だとされていますよね。
「祈りを捧げる」にはいろいろな形式があります。手のひらを合わせる、手のひらを組む、唱えるなど。
僕の祈りの形式は「描く」こと、かも知れないです。名前のない信仰の。
毎日祈りを捧げて暮らすことは、修行僧みたいだけど、「描く」ってそういうことかも知れません。
誰かの教えではなく、既存の宗教ではなく、自分で勝手に祈りを捧げる、自分の信仰としての描く行為なのではないでしょうか。
それが故、心もとない部分もあるのです。もっと自分を信じられるといいのですが、なかなか自信満々にはなれないのです。それでも祈りを捧げるように描いてます。
「祈りを捧げるように描いてる」と思うと、少し楽になる、救われた気持ちにはなるのです。
●引き蘢っていたい
引き蘢っていたい気持ちが強いのです。怖いのでしょうか。
怖いと思った時に、「キューっと動かなくなる人」と「ピョンピョン動き回る人」がいると思うのです。年齢とかも関係するかも知れないですが。
今は出歩くのが億劫です。
今日の大きな余震で家の外に出たのですが、電信柱が倒れて来ないような所まで数メートルくらいでしょうか、そのくらいの外の風景だけで別世界に感じるのです。
家からほんの数メートル外に出ただけでもいつもと違う風景を感じられるので、引き蘢っていたい。
●閉じ込められた画家
去年2010年個展をしたのですが、前の人が獄中で絵を描いてた人でした。
檻の中で自由を夢見ながら描いたのでしょう。
小さな絵で鉛筆かボールペンで描いてあるのですが、その絵が良かったのです。
狭い檻の中から宇宙に広がるような「ふわーっ」とする感じ。
苦しい、辛いというのも感じるのですが、だからこそなのか、星の方に羽ばたいていくような浮遊感というか、そういうのを感じたのです。
ため息が出るような浮遊感、宇宙に繋がって飛んでいく感じ、の絵を描くには、えん罪で牢屋に入れられてしまうような、不条理な不自由があったからかも知れない、と思うのです。
その人は確か釈放されてから絵を描いてないようです。
一番欲しかった自由が手に入って、描く必然性が消えたのかなあ。
僕が祈る行為として描いてるのは、獄中ではないけど、どこか不条理な不自由を抱えていて、自由を夢見てるのかも知れません。
時間と重力と空間から自由になりたい。
未出現の宇宙を夢見てる。
だからこそ、獄中絵画を見た時に自分に通じるものを感じたと思うのです。
その人は檻から出られて自由になったけど。
僕の場合の「自由」とは一体なんだろう?
「死」なのだろうか?
死ねば、時間と重力から解放されます。