今日もアトリエ「おこた」でドローイングしてます:2011.04.25.


USTアーカイブ(08:00)


<文字起こしというよりお喋りの解説>


葉書サイズ14作目、名刺サイズ17作目、描き始め。

描き始めは喋るより描く方に気が行きます。細かい所を描いてる時は喋っていても大丈夫なような気がします。


シュールレアリスムの「オートマティズム」と東洋の「偶然」について


今日の感想で述べてるのはざっくりと以下の感じです。

  • 僕は「行き当たりばったりで」絵を描いています。この「行き当たりばったりな描き方」に意味があるのだろうか?と考えてました。
  • オートマチズムはシュールの技法です。詩であるとか。西洋的発想というか。
  • 偶然という日本語の場合は東洋的な感じがします。
  • この「西洋的なオートマティズム」と「東洋的な偶然」をリミックスしたのが僕の「行き当たりバッタリ描く」という感じなのかなあと。


あんまりにもはしょってる感じがするので、ちょっと補足をいたします。


僕はどうやら「行き当たりばったり」を「西洋的なオートマティズム」と「東洋的な偶然」の融合として捉えて、それを「描き方」という「身体化」に織り込もうとしてるのです。


1.西洋的なオートマティズム

自動記述、自動現象と訳される。そもそもは生理学・心理学用語であり、意識の介在なしに動作を行なってしまう現象を示す。1920年代ヨーロッパのシュルレアリストたちはこの現象を表現に応用し、理性によるコントロールを取り除いて意識下のイメージを記述することを目指した。
オートマティズムAutomatism」現代美術用語辞典より


僕が思うにこの「無意識の露呈」とも言えるオートマティズムもダダ・シュールの人たちは「ある意味、科学」として捉えたのではないでしょうか。

これは眠りながらの口述や、常軌を逸した高速で文章を書く実験などだった。半ば眠って意識の朦朧とした状態や、内容は二の次で時間内に原稿用紙を単語で埋めるという過酷な状態の中で、美意識や倫理といったような意識が邪魔をしない意外な文章が出来上がった。無意識や意識下の世界を反映して出来上がった文や詩から、自分達の過ごす現実の裏側や内側にあると定義されたより過剰な現実・「超現実」が表現でき、自分達の現実も見直すことができるというものだった。
オートマティスムウィキペディアより


この実践方法の徹底ぶりも、一神教の持つ強迫観念的な「西洋的な」発想方法だなあと僕は考えるのです。


2.東洋的な偶然


これは南方曼荼羅をイメージしてます。

 熊楠がロンドンに居たころの19世紀の科学は、ニュートン力学が支配的パラダイムであった。それは因果律−必然性−の発見を究極の目標としていた。これに対し熊楠は、因果律は必然性を明らかにする性質があるが、自然現象も社会現象も必然性だけでは捕らえられないと考えた。必然性と偶然性との両面から捕らえるのでなければ真実はわからない。

 仏教は因縁を説く。因は因果律−必然性−であって、縁は偶然性である。したがって科学の方法論としては、仏教のほうがニュートン力学を超えていると喝破したのである。
南方熊楠の曼荼羅論』より


因果律とは科学的な考え方で、これに因縁(偶然性)を加える必要がある。というのがざっくりとした主旨でしょうか。
東洋思想には「偶然」をおおらかに肯定する傾向があると僕は思っています。

そして最後に因果という必然性と因縁という偶然性との関係を示そうとしたのである。ちなみに、仏教は因縁を説く。因は因果律であり、そして縁はさまざまな因果としての必然の鎖が偶然にであうことをあらわしている。
「南方曼陀羅」の絵解き! (その1)』より


興味深い一節をさらに引用します。

この観察には重要な視点が幾つか含まれている。まず、粘菌の生成過程は現代の生物学が、生物の「合目的性」と云う意味で注目しているオートポイエーシス、つまり自己創成そのものであること。粘菌の自己創成プロセスは日光、日熱、湿気、風雨など、偶然性に依存していること。このプロセスは動物相と植物相のあいだを行ったり来たりと反復し、「あれも・これも」という動きを示すこと。また、きのことなっている胞子や胞壁は、それ自体は植物相にみえるが、あくまでも死物であって、じっさいに生きている原形体は動きまわって物をくいあさっている、動物であると。植物相は死んでいて、動物相が生きている。人間から見て死んでいると見える痰様の半流動体は、もっとも活発に生きている状態であり、生きていると見える、きのこの状態は仮死のすがたであるという。生物を観察しているわれわれは、内側からではなく、外側にあらわれた行動を観察して判断し、推測しているだけなのだ。人間の主観と客観に対する疑問である。観察者はあくまでも相対的な立場であると。 量子力学が成立していく過程で、粒子なのか波動なのかという議論を収拾していったのが、ボーアの「相補性の原理」とハイゼンベルクの「不確定性原理」であった。この相補性という意味は、粒子と波動の双方を同時に容認するということ。つまり、「あれか・これか」ではなくて、「あれも・これも」という二つの選択肢をどちらも同時に受け入れるという意味であり、その代償として払わなければならない対価が、ハイゼンベルクの不確定性の原理(確率)という曖昧さであった。言い替えれば、相補性は排中律の否定である。粘菌の観察が相対的になり主観と客観が曖昧になるように、原子以下の世界でも客観的な世界は成り立たない。有名な「神はサイコロ(確率)を振らない」とアインシュタインが嘆いた理由である。そして、生命にとって内部と外部の区別は意味をなさないと云っている。生命の誕生、つまり発生のいつの時点で個体がヒトとみなされるのか、受胎のときか、子宮内での外科手術が可能となる20週目の胎児なのか、それとも母体の外にでる誕生の時なのか、あるいは、死の定義は脳死なのか心臓停止の時点なのかという、現代社会の深刻な問題になっている死生観と生命倫理にかかわる視点でもある。粘菌は境界領域の生きものである。中間の性質をもった、分類学の集合の論理から外れている、二者択一のきかない、排中律がなりたたない、つねに生と死が転回しつづけている、近代科学の論理の外にある生きものなのだ。
「南方曼陀羅」の絵解き! (その2)』より


この文章はまさに僕の描き方そのものであると言えます。


粘菌の自己創成の法則性は、僕の描く線の法則性と同様、案外とシンプルだと思います。それらが偶然に依拠しながら増殖していく。
動物性と植物性の曖昧な造形を線にしながら、
個体境界を曖昧にする線を描きながら、
未完を生とし完成を死とし、また完成を生誕と捉えながら、
平面と奥行きを兼ね備え、
「あれも・これも」を線にしながら。
自分の主観のようでいて客観描写でもある曼荼羅的な絵画世界。


●「行き当たりばったり」は意識の超え方の実践方法


「オートマティズム」も「偶然」も、「意識の外」にあります。
「西洋的なオートマティズム」と「東洋的な偶然」は、
「西洋的な意識の超え方」と「東洋的な意識の超え方」とも言えそうです。


「西洋的な意識の超え方」は
「オートマティズムのストイックでパラノイアチックな実践」で、


「東洋的な意識の超え方」は
「南方曼荼羅のようなおおらかな世界の捉え方」だ、

と僕はそう解釈して、両方兼ね備えたいのです。(けどストイックでパラノイアチックなのは厭だなあ)


前日は「前近代の日本と接続したい」と言ってました。
そして今日は「東洋と西洋の意識の超え方を融合させたい」と言ってます。

描くと言う身体行為でそれを成してみたい。


大変だなあ、オレ(苦笑)


2011年04月25日(月)17:02
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